2011年10月04日
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代田橋の謎が解けない……

Written By: 川俣 晶連絡先

 井の頭通りの和田堀給水所から環七までの区間に、何となく水の印象を受けるのに台地上で谷筋を想定できません。良く分からないので、探索に行ってみました。やはり良く分かりません。

 帰ったら「て」さんからのメッセージがありました。

川俣さん。こんにちは。

実は、3年位前にこのテーマに取組んだ事が有ります。

①書物によると、東松原支流は羽根木2丁目の児童公園が源泉で痕跡もる。 ここは、羽根木神社の参道の近くで、神社の池等の流れがあっても不思議は、無い。但し、いつの事だか、時代だか不明だが、羽根木神社は移動しているらしい(この辺が怪しいとても…)

 この解釈は却下です。なぜなら、和田堀給水所南部の凹地の解釈からスタートしているからです。「羽根木2丁目の児童公園」が水源であっても構いませんが、それとは別の流れがあったのではないか、と推定します。ちなみに、和田堀給水所からの排水用人工水路ではなく、もともとあった自然の水路と思われます。高低差がくっきりと付きすぎています。

 ただし、「羽根木神社は移動しているのでは無いか」とは私も疑っていました。古地図を見ると位置が違うように見えたので。寺社仏閣を追いかける趣味は無いので語ってはいませんでしたが。

②ダイタラボッチの源流は、守山小学校北方しか書物に出てこないし、実は この守山小学校が、キーなのかもしれません。現場周囲を一生懸命散策しても、これしか無いのです。気がついたのです。見てないのは守山小学校 だけだって!でも学校こそ痕跡有るはず無いし…

 今日も守山小学校近くまで行きました。このあたりも凹地があるので、ここがダイダラボッチの足跡でも不思議では無い感じです。ただし、どこがどう足跡型なのか良く分かりません。ちなみに、北沢川支流探索で前にも来た場所です。

③実は、これで多くを解決できる?!和田堀給水所の完成前の姿は?!

 最近これと、数個テーマをもって水道歴史館に通っています。

 ダイタラボッチは南下していますが、近くの東大原小学校付近では、逆川 となって北沢中学校の真横に、入って行きます。水源は、はるか南側の下 北近くの崖で、明治時代は北に向かい常に噴出していたそうです(南代田区民館だったと思いますが、ジオラマが在り、古老が地誌を文集として何十刊と作成寄贈されています(残念ながら、コピー本は無く貸出不可!、 行って読むしか無いけれど、一読の価値は有ります。また長々書いてしまいましたが、この和田堀給水所の完成前の姿を探ると、多くの事が、明らかに成ると思います。

 南代田区民館とは、代田南地区会館のことでしょうか?

 そのうちに行って見ましょう。

 和田堀給水所の完成前の姿は気になるところです。

 和田堀給水所の地形はほぼ人工地形で、ここには何かがあったと推定しています。それがダイダラボッチの足跡であるか否かは別として何かあったのだろうと思います。

 ちなみに、文学のロマンは全く求めていないので、「ダイダラボッチ探し」よりも、発見した凹地の解釈の方が先です。

ちなみに水道歴史館の見解は、玉川上水の監視所。

私は、井の頭通りの北川を蛇行する名無し川(沖縄料理店横)の源泉。

長年探している玉川上水からの代田分水。等々

河川にも一方通行の様な矢印が、昔からついていれば?!

と、思っています。

川俣さん。季節の変わり目、ご自愛下さい。

 和田堀給水所から地形的に東に向かうのは考えにくく、やはり南に向かって下るのが順当だろうと思います。しかし、それはさておき、和田堀給水所の東部にどうも水臭い土地が続いていて、そこに玉川上水方面から続く人工水路があったというアイデアは面白いと思います。代田分水なるものが存在したのかはともかくとして、代田橋に何かがあったことは確かそうです。

 とはいえ、和田堀給水所、京王線、環七、井の頭通りと大規模な土地改変を含む工事が集中しており、なかなか解釈が進みません。

 では、てさんもご自愛下さい。

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